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なぜ大多数の人間は芸術的な事物を通して「素直さや正直さや誠実さ」を享受しようとするのか?

人はなぜ映画や音楽や、芸術家や偉人や天才に興味を示すのだろうか?

私はその理由の一つを次のように考える。

 

すなわち、「自分が日々犠牲にしている感情を補給するため」であると。

 

そしてその感情の多くは「素直、正直、誠実」の3つであると思う。

人間は本来、自分の感情・思考に対して、

忠実に素直に正直に生きたい動物である。

 

しかし大多数の人間がそれを徹底できない。

なぜだろうか?

 

人から嫌われるのが怖いからかもしれない。

嫌われた結果、経済的な面に影響が出たり、人生全体が貧しくなって

しまうかもしれない。あるいは反社会的であるとして逮捕されるかもしれない。

 

人が自分に対して正直さを貫けない原因は、

ひとえに「共同体から排斥される恐怖」と「貧乏」の

二つに大別されると俺は思う。

 

会社の宴会に嫌々行くのは「職場の人間に嫌われたくないから」という

マイナスの動機から発している人が多いのではないかと思う。

宴会に行きたい!という積極的理由ではない。

 

「仕事がはかどらなくなる恐怖」

「出世できなくなる恐怖」

「いい仕事が回ってこなくなる恐怖」

「職場から干される恐怖」

「困ったときに同僚が手を貸してくれなくなる恐怖」

「この会社以外に行く所(採用してくれる所)がないからという恐怖」

 

そういったありとあらゆる恐怖を動機としているのである。

 

しかし、自分が素直に感じる気持ちを犠牲にする代償は大きい。

それは「宴会に行きたくないから行かない」という素直な気持ちを

選択したときよりも大きい。

 

嫌々宴会に行くことによって、人は自分を傷つける。

その傷は他者に好かれたときよりも大きなものである。

 

つまり精神的な面で「赤字」になってしまっている。

嫌々でも宴会に行くことで、たしかに職場の仕事が

捗るかもしれない。出世するかもしれない。

 

しかしそれはまやかしである。

 

とはいえ、私がこの記事で言いたいことは

「自分の正直な気持ちを選択せよ」ということではない。

人は何かの選択に対して「本当の自分の100%純粋な声」が

存在すると私は思っていない。

 

ある時はそれがとてつもなく好きであったり、

もう飽きたり嫌になることもあると思っているし、

したい気持ちが50%、嫌な気持ちが50%という時もある。

また、「やってみなけらばわからない」というときもある。

理性の正直さ、欲望の正直さの2種類に別れるときもある。

 

つまり、自分の気持ちを断定することが出来ない選択をしなければ

ならない時も人生に存在する。

 

しかしもしそうだとしても、私は自分の正直な気持ちを

まず最優先にしなければならないと思う。

 

人はどこまでもその気持ちを大事にしたほうがいい。

 

自分が意志して選択した事柄が、

辛くて辛くて仕方ないときに「頑張るんだ!」という気持ちが出てきたとき、

それはもう適正のなさを証明しているのかもしれない。

 

自分が心の奥深くが死に始めているのかもしれない。

その頑張りの動機は「他者から評価されたい」という気持ちがほぼすべてを

占めているのかもしれない。

 

自分の人生がもっとラクに楽しくなるならば、

私は人を傷つけても正直に生きたい。

 

私が自分の気持ちを表明してもっと強くなるならば、

私は他人に嫌われてもいい。

 

そうなったとき、私にはありとあらゆる芸術が必要ないのかもしれない。

もうお気に入りの音楽も映画もいらない。

一流の仕事術も成功法則もいらない。

 

「あぁ俺は今自分に正直に生きているのだなぁ」と

しみじみと感じられる時が今より少しでも増えていけば、

私は友達も恋人もお金も権力もあまり必要なく、

幸せに穏やかに生きていかれるだろう。

そしていつ死んでもいいのだと思う。

 

それは、恋人を抱いて尽きたあとに生じる

「このまま死んでもいい」とはまた違う、

もっと心地よいものだろう。

 

人生にはいろんなことがある。

本当の気持ちなんて出てこないときもある。

でもそれでも、自分に湧き上がるかすかな本当の声は

確実に存在すると俺は思う。