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世界に対して視界を閉ざさない限り、人は不幸から抜けられない。

昨日、俺はえげつないサイトを見てしまった。

そこにあったのは世界中の残虐極まりない動画である。

テロリストの蛮行、交通事故、犯罪被害、貧困・・・

それらをネタにした気持ちの悪い動画を観ていた。

 

俺は思った。

世界は未だにこれほどの無知と哀しみに満ちているのかと。

平和、人権、平等・・・これらの理想がほとんど実現されていない国が

まだまだ存在するのだ。いや、それらの概念は幻想なのかもしれない。

 

一体、何なのだろう。

人間がこの世界に存在するということは。

まったくもって分からない。

 

あなたは信じられるだろうか?

アフリカの一部の国の村では、「魔術を持つと疑われた人と家族」が

村人たちの私刑に会い、殴られ、焼かれ、

死ぬまで残虐な暴力を振るわれる。生きたままそうされるのである。

 

俺は昨日この動画を観ていて、涙が出そうになった。

「こんなサイトを見ている俺はクソだな」ということではない。

そうではなく、これほどまでに理不尽で不幸な目に合う人が

未だに存在することが哀しくて仕方がなかった。

ただアフリカの村に生まれただけなのに、ある日自分が魔術を持つと疑われて

家族もろとも殺される。

 

一体、こうまでして世界が存在する価値はどこにあるのだろう?

たとえ日本人全員が幸福を享受できても、これほどまでに

残虐な世界がいまなお存在するのならば世界は消えてなくなって

いいと俺は思う。

 

そう、無が一番いいのだ。

何もないのが一番いい。

何も存在しないこと。「在る」ことがなくていい。

【「在る」がない】という存在の仕方。

 

世界の人々すべてがいつか幸福になるのを「待つ」のではない。

社会の進歩を「待つ」のでもない。

 

進化・向上心・幸福とかもうどうでもいいんじゃないか?

 

世界も宇宙もなくていいのだ。

無が一番いい。

 

世界にはびこる無知と不幸と残虐性。

これらは人間の努力で解消できない。

100年後もそのまんまだろう。

 

あちらを塞げば、こちらが飛び出る。

なにをやっても人間の理念は理念のままなのだ。

 

今日もどこかに暴力を振るわれ、覚せい剤に溺れ、肉体を売られ犯され、

村八分に会い、体を焼かれ、閉じ込められ、虐待されている人々が

きっと存在している。

 

もし俺が現にこれらすべての出来事を直接的に知覚できるのならば、

俺の心身は崩壊するだろう。

そしてこれらの人々のために何かをせねばというよりも、

「世界がいまこの瞬間に消えてなくなってくれたらなぁ」と

願わずにはいられない。

 

世界から目を背けず、思考停止しないならば、俺は常に不幸だ。

日常のささやかな幸福はたしかに存在する。

けれど、永続する幸福は視界と思考を限定した自己欺瞞の中からしか生まれない。

 

人は見ない・考えないことによって幸福を作り出す生き物なのだ。

正確に言えば、不快を排除し、幸福を求める人間の習性が

この世界の悲喜劇を生み出している。

 

あなたは人間の持つこの習性に良さを感じるだろうか?

世界は別に幸福でも不幸でもいい。

そう思えるならばきっと今の世界はこのままでいいと思う。

 

けれど俺には無理だ。

人間は生まれながらにして悪の習性をもつ。

そして人間はこの悪を克服できない以上、世界は消滅したほうがいい。

 いや、百歩譲って、世界の不幸を始め、残酷で気持ち悪いもの、

不快なもの、異常なものを見ない、考えない、知覚しようとしないことが

結果として世界を幸福にしていることになるのだろうか?

 

もしかしたら知覚が限定されていることが人間の救いなのかもしれない。

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